●町の概要

久御山町は、京都市の中心から南へ約15km、北は京都市伏見区、東は宇治市、南は城陽市、南西は八幡市に隣接しています。町域を国道1号、国道24号、京滋バイパスの幹線道路が通り、道路網が整備され、 大阪、滋賀、奈良の交通の要に位置しています。

面積  13.86平方キロメートル
位置  北緯34度52分45秒 東経135度44分6秒

久御山町の風土

平均標高10〜13メートル。久御山町は木津川の堆積作用によってつくられた沖積平野で、平均の標高が10〜13メートル といった低い所に位置します。
  また、山城盆地の中央部に位置することもあって、瀬戸内気候区域に入り、冬は少雪で、 寒さが厳しく、夏は高温多湿という四季がはっきりした気候です。

久御山町の歴史

平安朝御牧馬寮の碑久御山の地は、巨椋池周辺を中心に早くから開けました。地名や、『日本書記』にみるかんがい用水路と考えられる栗隈の大溝の記事からも分かるように早くから稲作が盛んな土地だったようです。市田斉当坊遺跡からは弥生時代の出土物が数々発掘され、弥生時代中期の集落跡の可能性があるといわれています。
 平安時代に入ると、皇室領として御牧に美豆の牧、佐山には御厨が設けられるなど、朝廷との深い関わりがありました。
 町内には、称名寺薬師如来坐像や浄安寺聖観音菩薩立像など平安末期から鎌倉時代にかけての古仏も多く残されており、当時の精神文化をうかがい知ることができます。また、神社建築にも見るべきものがあり、雙栗神社本殿の「りすとぶどう」「鹿と紅葉」の華麗な彫刻は、過ぎし日の栄華をしのばせています。
 近世では、巨椋池漁業権の総帥であり、大庄屋であった山田家の長屋門は、東西27メートルの壮大なもので、その堂々たる風格は、昔の面影を今によく伝えています。
 久御山町の歴史は、また水との闘いの歴史でもありました。
 文禄3年(1594)、伏見城を築城した豊臣秀吉は、宇治川を巨椋池北方の伏見城下に迂回させ、巨椋池の各所に堤防を築き、流入していた諸河川と池を分離させました。このため、明治時代まで2,3年に1度は水害に襲われることになったのです。
 このように災害をもたらした巨椋池も昭和8年から同16年にかけて干拓されました。しかし、近年においても、昭和28年の台風で再び水害の恐怖にさらされ、作物は収穫皆無となる状態でした。こうした中でも先人はくじけず、新しい作物の栽培を試みるなど、たくましいエネルギーで苦難を乗り越え、未来へ躍動する今日の久御山町の礎を築いてくれました。。

まちの歩み

昭和41年国道1号が開通以降、町の様相が変化  昭和29年10月1日、久世郡の御牧村、佐山村の二村が合併して久御山町が誕生しました。 合併当時の人口は約6,500人、純農村地域でしたが、昭和41年国道1号(当時は枚方バイパス)が 町の中央部に開通してから町の様相が変わり始め、人口や工場、事業所が増加するとともに、 公共施設など都市基盤整備が進み、今では住宅と産業のバランスのとれた活力あふれるまちとして 発展を続けています。